<目次>
第一回 エンジニアリング業界からの衝撃
第二回 強みを活かす
第三回 ブルーノタウト・新渡戸稲造・ホイットニー
今月から、しばらくの間、「コミュニケーションと文化」という題で連載します。しばらく、おつきあい願います。
表題は、プロジェクトを成功させる大きな要因はコミュニケーションであり、コミュニケーションは文化に強く影響されている。そこで、これら関係を少しでも明らかにしたいと思ったことが、今回の題名の背景です。
先日、IT-SIGの場で、JPMFの渡辺貢成さんの話を聞いた。その中に、衝撃的な話があった。曰く「石油プラント・エンジニアリング業界で、2000億円以上のプロジェクトをターンキー契約(注)でとれるのは日本勢だけだ」と言う発言である。日本勢は、PRACTICEをためて見積と作業精度を高めたらしい。
この言葉から、次の2つ疑問が浮かんでくる。
(1) なぜ、日本だけなのか。
(2) コンピュータシステム開発プロジェクトではできないのか。
(1)は、文化や民族の特徴などに関係しそうである。(2)は、直接的には、エンジニアリングとコンピュータシステム開発の違いを明確にすることであるが、その後ろには、文化が隠れているかもしれない。
2.STANDARDとPRACTICE
石油プラントのRFPは、一般につぎの書類で構成されるらしい。
(1) 契約書案
(2) 要求事項(仕様)
(3) 当社STANDARD(米国標準との違いだけが書いてある)
(4) PRACTICE
(3)項にある米国標準は米国が作ったはずだ。枠組みを米国が作り、枠組み(その標準)の中に実際のPRACTICEをためたのは日本である。大雑把に言うと、「標準を作ったのは欧米、中身をいれたのは日本」と言う構図である。この結果、エンジニアリング業界の大プロジェクトについては、地球上で日本が最も強くなった言うことらしい。
STANDARDとPRACTICEの構図は、ソフトウェアでもある。ソフトウェア業界でも、標準(?)は、ほとんどが欧米製だ。PMBOK, ISO9000, CMM, SLCPなどなど。一方で、ゲーム以外のソフトウェアでは、完全な輸入超過である。「巨大なターンキーによるコンピュータシステム開発プロジェクトならば日本に任せろ」と言う話も聞いたことがない。
3.日本発標準か
私は、ずっと、日本発の標準が必要だと思っていた。ところが、エンジニアリングの話を聞いて、ちがうかもしれないと考え始めた。
欧米、特に英米が標準を作るのが得意であれば、この部分は、原則任せてしまい、日本は、中身をいれることを中心にやるという風に、戦うグランドを変えた方が良いかもしれない。その方が、文化や民族の持っている特徴が生きるかもしれないと考え始めた。これが、私にとって衝撃的だったのである。
そうすると、日本は何が特徴で何に強いかが分からなければ話は始まらない。次に、欧米は何が特徴で何に強いかと考えるべきだが、欧米には沢山の国や民族があって括れないので、ここまで話を進められないだろうと考えています。
(注) TURN KEY: キーを回すと動く状態で発注者に渡す契約のこと。受註者にとってリスクが大きい。TURN KEYの対極は、TIME AND MATERIAL: 時間と材料分を払う(受ける)契約。
前回、「欧米はSTANDARDに強く、日本はPRACTICEに強いらしい。各々の強みを活かすべきだ」と書いた。今回も、もう少しこの話しを広げてみる。地球に広げると、日本や欧米以外に様々な民族がいるので、民族の強みを活かすことが意味ある事になると言うことになる。
1. 食物連鎖のアナロジー
食物連鎖は、植物が繁って、それを動物が食べて、糞や死骸をバクテリアやミミズが肥料に変えて、肥料が植物を育て、云々と一回りする。色々な生き物がそれぞれの役割を果たして、強みを活かすことで、この連鎖(安定)が成り立っている。何処かが切れれば、何処かの生物が無くなるとこの連鎖は成立しない。
自然と同様に、多様が重要である事は人の世界でも同じだ。ソフトウェアを作る人、売る人、使う人等々、多様は、人の世界でも同様である。しかし、人間の活動範囲は広いので、ものの生産の他に様々な連鎖が存在する。方法論、概念、管理、社会ルールなどもそれぞれに連鎖を持っている。
個人の強みを活かすことと同時に、個人を括った集団としての強みを活かす事も考えなければならない。集団は会社を作ったり、様々なグループを作っているが、一つの意味のある大きな集団は、民族ではないだろうか。民族は、言葉・文化を共有し、各々が強みを持っている。民族と連鎖の種類および連鎖の各々との組み合わせで強みが発揮されると考えている。
さて、この多様性を活かすには、平たく言えば、自分の言葉で自分の場所で考えることだ。言葉と場所は、気候・風土森羅万象の凝縮したものである。そこで、自分の言葉で自分の場所で考えたことは、既に多様性を持っている。それを国の内外の人に話すと、他の集団の観点からの評価・アイデアが加えられ新たなものが生まれる。
2. 品質管理の方法論を例にとると
品質管理の方法論を、時間を追ってみよう。戦後、デミング博士らにより、米国から統計的品質管理(SQC)が紹介された。それを、日本は精緻にして全社的品質管理(日本式TQC:注)に仕上げ、「安かろう悪かろうと言われた日本の工業製品を世界一の品質」に高めた。さらに、精緻になった方法論を米国が、間口を広げシックスシグマに仕上げた。日本式TQCでは、工場内を奥行き方向に見て「次工程はお客様」と言うことになるのに対し、シックスシグマでは、間口方向に、お客様はお客様で工場の外との関係が重視される。
この様に、日本は精緻にする方向に方法論を進化させ、米国は間口方向に進化させたと理解出来る。つまり、2つの文化が互いに違う方向に、各々の持っている強みを活かして方法論を進化させたと言う訳である。
結局は、文明のぶつかるところに新たな文明が栄える。つまり、民族の特徴を残し、外を学びながら変革していく事である。ところが、今、我々は、民族と自尊の精神を忘れ、外から学ぶだけになっていないだろうか。国際とは、国があるから際がある。国がなければ際は無い。少なくとも、英語が出来て日本を知らないのは、国際人の資格はないはずだ。
3.どうするか
日本人は、遣隋使・遣唐使以来、概念や方法論、制度などを輸入し日本化してきた。当時は、完成度の高い概念や方法論しか入って来なかった。しかし、今や瞬時に、情報が世界に広がる時代だ。我々自身が選択し、地球上の多様性の一つである事を認識して、考えること、またそれを内外に発信することが重要である。
(注)TQC(総合的品質管理)とCWQC(全社的品質管理)を分ける場合があるが、ここでは、CWQCを日本的TQCとした。
今回は、ちょっと歴史をひもといて見ます。海外から日本がどんなふうに見えていたかを知ると我々の良さも悪さも見えてくると思います。ここで紹介する3人は、文化の多様性を認めた人々だと理解しています。
1.ブルーノ・タウト著「ニッポン」講談社学術文庫
ブルーノ・タウトは、ドイツの建築家で、桂離宮や床の間の美を日本と世界に広めた人です。桂離宮の建築と庭、加えて建築と庭とのつながりを絶賛しています。一方、銀閣寺の中には、中国の影響が見えるので感心しない。さらに、日光の東照宮は「こんなものを外国人にすすめるのか」と酷評しています。これを読むとなるほど、そう言う見方が出来るのだなと、新しい観点を見つけた気分になります。
以下に、彼の言葉をいくつか拾ってみます。
まず日本の建築を、次の様に言っています。
・「1920年前後のヨーロッパ住宅の簡素化に最も強い推進力を加えたのは、大きな窓や戸棚を持ち、全く純粋な構成を有する簡素にして自由を極めた日本住宅であった」
・「材料の簡素、明確、清純」
以上は、文化の相互作用が、お互いの進化のエネルギーになっていると言っていると考えます。その上で、「国民性の力というものは、視野が広くなればなるほど、また、その国民がその国民性の喪失を危惧することが少なければ少ないほど、益々つよくなるものである」と言っています。多分、私流に解釈すると、「国民性は考えなくても喪失しない。だから、視野が広くなればなるほど国民性の力は強くなる」です。今までの主張どおり、自分の言葉で、自分の視点で、自分で考える事が大切だと言うことだと理解しました。
2.新渡戸稲造著「武士道」 岩波文庫
まず、この本は、1899年に英語で書かれ出版されました。当時のことですから、これだけで驚きです。その上に引用している欧米の人々が多岐にわたり、その博識も大変です。
序に、次のような文があります。
『あなたの御国の学校には宗教教育はないとおっしゃるのですか。「ありません」と答えると「宗教無し!どうして道徳教育を授けるのですか」と繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。
・・・(中略)
私は正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは、武士道であることをようやく見いだしたのである』。
西洋における騎士道、価値観、倫理感と比べて、日本には優れたものがある事を主張しています。
義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己です。世界に誇れるものを持っている(た)のです。現代に生きる我々も、自分を見つめ長所を活かし、その上で視野を広げる必要がありそうです。
3.ホイットマン著、酒本雅之訳「草の葉」岩波文庫版中巻
咸臨丸に乗って、日本人がアメリカに行き、ニュヨークのブロードウェイを行進した時の模様を書いたものです。
「西の海を越えて遥か日本から渡来した、頬が日焼けし、二本の刀を手挟んだ礼儀正しい使節たち、無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、きょうマンハッタンの街頭をゆく」
ここに描かれているのは、武士道の倫理感と美学に支えられた人々でしょう。多分、羽織袴で両刀を差し、堂々と行進するのを見てホイットマンは感激したのだと思います。この詩の後半では、アジアの様々な国々が「自由」の元につながる夢を描いています。堂々としている事が、ホイットマンにを感激させたのでしょう。
去年出た本「日本人よ、もっと自信を持ちなさい(日新報道社)」では、台湾の人々からのメッセージが載っています。我々は、海外の方法論や概念におろおろしていないでしょうか。